Jul. 07,2015 Tue    木乃婦での話

 
 2015年7月3日午前11時半から2時間、京都市下京区新町通仏光寺の「木乃婦(きのぶ)」でおこなわれた実食セミナーに家内が参加した。5月8日の「菊乃井」実食セミナは定員丁度で締め切られ、広間に一同が会し村田吉弘氏の話があったのだが、木乃婦は定員を20名増やしたことで広間収容過多となり、参加者は小部屋にも振りあてられ、木乃婦主人・高橋拓児氏の話はカット、各部屋を高橋氏が挨拶に回る。そして広間収容不能が思わぬドラマを生むこととなる。
 
 その部屋は100名収容の広間とちがってイスとテーブル6名用の小部屋でカーペットが敷かれていた。懐石料理がスタートして数分は誰もが言葉少なめだったけれど、何がきっかけだったのか、和服を着た60代後半の女性が口火を切った。その女性はほかの参加者が部屋に来る前に座っていたし、25分前に木乃婦玄関をくぐった家内が最後にテーブルについたから、女性(Aさん)の身体状況を知るすべはなかった。
Aさんは自分が車いす生活であること、日常は介護士と隣に座っているご主人にも面倒をかけていると言った。それを余儀なくされたのは、信号を右折してきた車にはね飛ばされ(ほんとうに数メートル吹っ飛んだらしい)、上下半身の骨折のほかに脊髄と頸椎の損傷がひどく、取り返しのつかないありさまだった。事故をおこした車は若い女性が運転していた。
 
 主治医の話ではリハビリしても回復は困難、足は車いすにゆだねるとしても、手も動かないかもしれないと診断されたそうである。車いすだけでもつらすぎるのに手も使えなくなったら、生きた心地はしないだろう。リハビリに打ち込むAさんの意気込みは壮絶をきわめた。
数年後、Aさんは自分で着物を着られるまでに回復した。両手に命がもどってきたのだ。しかし足は死んだままだった。3階建ての家屋にドイツ製の昇降機を取り付け、車いすに座ったまま往き来できるようにした。年に2回ハワイへ行き、京都の料亭へも通うようになった。Aさんの息子は母の気持ちを早く精確に察し、旦那はその点胡乱らしい。
 
 Aさんの話が一段落するのを待ちかねたかのごとく話だしたのは70代後半の女性Bさんである。ご主人Cさんのことがショックで2年ほど鬱状態になったBさんは、心療内科の治療をうけたという。Cさんも交通事故にあい、足の切断手術(ひざから下)が施されたのだが、CさんはそのことをBさんに伏せ、手術承諾書には息子さんに署名を依頼、BさんがCさんの足切断を知ったのは術後だった。
義足姿で退院したCさん(79歳)は、自宅の1階では車いす、2階には上がらず、5年の間引きこもりがちだったが、なんとか立ち直り、外出時のみ義足をつけるそうだ。いまでもCさんの1階生活は続いていて、夫婦が顔を合わせるのは食事のときだけらしい。ただ週に一度は娘さんの家で朝食をとるという。
 
 木乃婦実食セミナーにひとりで参加したのは家内のほかに一名いて、その女性Dさんが話しだした。Dさんのご主人Eさんはは脳梗塞で倒れ、退院後も後遺症が残り左手が麻痺した。風呂に入るのもままならず、かといって介護士も拒み続けたEさんの世話をしていたDさんもとうとう介護士を頼むこととなった。Eさんは現在も外出を嫌い、特にこういう会食の席は左手が不自由だと周囲に気づかれるのがイヤで来なかった。
 
 木乃婦に直接車いすの対応を問い合わせたのはAさんのご主人のみで、そのほかの人たちのことを木乃婦も主催者(京都銀行)もまったく知らなかった。にもかかわらず小部屋に参集した人のうち家内を除く全員の配偶者が治癒不可能の身体だった。肉体と精神は不即不離として、精神の苦悩はわかりにくく、肉体の苦悩はわかりやすい。木乃婦にやってきた5人は全員京都市在住(家内は兵庫県)。ふしぎとしかいいようのない巡り合わせである。

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