2016年9月21日15:00過ぎ 前日の台風16号の風はおさまったけれど 小雨そぼふるなか京都市上京区烏丸通下立売西入の「有栖館」
へ行ってきました。有栖館は「有栖川宮旧邸」と名づけられていた建物を平成20年(2008)に学校法人・平安女学院が取得。平成21年に
大規模補修を施したのち「有栖館」と名称変更、平成22年から季節限定で一般公開している国の登録有形文化財です。
 
有栖川宮家は1625年、後陽成天皇の第七皇子好仁(よしひと)親王によって創設、1923年(大正12年)に
絶家となるまで約300年続きました。有栖川邸は京都御所の建礼門の前にあったのですが、
明治維新後京都裁判所の仮庁舎として使用され、その後、現在の場所に移築され、移築後も
旧京都地方裁判所所長の宿舎として2007年まで使われていたとか。
 
 
京都御苑の西がわ烏丸通に面した有栖館の門は銅板と真鍮板で葺かれた平唐門。
三井高保(三井銀行社長 1922年没73歳)が1912年自邸に建てた表門。
 
門は別の場所に移築されましたが、それを裁判所が購入し、1952年、京都地方裁判所長の
官舎表門として現在の場所に移築しました。同年「仲秋の名月」の夜、当時の京都裁判所長石田寿と
交流のあった吉井勇がこの門を「青天門」と命名(青天門の文字は李白の詩)したといいます。
 
しだれ桜
しだれ桜
 
青天門をくぐると両側にしだれ桜、楓が植えられています。しだれ桜は醍醐の花見に使われた桜の孫にあたり=
醍醐寺三宝院にあった実生(みしょう)の桜を門跡岡田戒玉の快諾のもとに1952年3月移植=
2009年、有栖館の庭をつくった十一代小川治平衞(植治)が「立ち話ではなんですさかい」と命名したといいます。
左側の桜は土塀をこえて烏丸通にせり出しています。
 
 
玄関を入ると15畳の板張が目をひきます。畳を入れれば特段変わり映えのしない広間です。
が、畳をはずせば能舞台に様変わり。画面左手に座敷(12畳半)と上段の間(2畳)があるので、左側が正面。
 
幕末明治大正の有栖川宮
幕末明治大正の有栖川宮
 
上の人物(イスに座っている)のが有栖川宮熾仁(たるひと)親王(1835−1895)、
下は有栖川宮威仁(たけひと)親王(1862−1913)、と有栖川宮妃慰子(やすこ)。慰子は加賀藩最後の
藩主前田慶寧(よしやす 1830−1874)の四女。
 
熾仁親王は和宮親子(ちかこ)内親王の婚約者でした。和宮が江戸に降嫁したため婚儀は成立せず、
維新後、徳川慶喜の妹貞子を最初の妃に迎えます。その2年後、貞子がは23歳で病没、1873年、
新発田藩主の七女と再婚しました。
 
熾仁親王は長州を擁護し孝明天皇の怒りを買いましたが、その後は三職(総裁・議定・参与)をつとめ、
明治天皇を支えます。三職の廃止後、兵部卿〜福岡県知事〜元老院議長に就任、西南戦争時、
かつて政府軍を共に指揮した西郷隆盛を征討する任務につき、西郷軍を制圧します。
 
1877年10月、西南戦争の功労者となった熾仁親王は西郷に次ぎ二人目の陸軍大将に任命されます。
西南戦争中、日本赤十字社(博愛社)設立をはたらきかけた佐野常民らの精神(味方・敵の別なく救護)を
尊び、政府へ諮問せず設立を認可。かくして日本赤十字社は発足します。
 
熾仁親王の熊本の宿舎は熊本洋学校教師館ジェーンズ邸(洋学校は1876年に閉鎖。ジェーンズは
同年大阪英語学校に教師として赴任)でした。その館に博愛社(日本赤十字社)が設立されたとのことです。
2016年4月14日の熊本地震によって建物の壁が崩落し、16日の地震で建物は崩壊。
 
 
有栖川宮旧邸は敷地面積約650坪、建坪約119坪、木造瓦葺平屋建て、書院造り。
特色は美しいガラス格子とガラス越しにみる庭園。能舞台としても使われた板張。右側に12畳と上段の間(2畳)。
 
 
庭は2009年に十一代小川治平衞が作庭しました。
 
 
雨に濡れた庭は静かでした。
 
 
美しい庭もガラス越しにしか撮影できないのが残念。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ガイド氏の説明
ガイド氏の説明
 
熟年ボランティア・ガイド氏の話は約30分。ひたすら有栖川宮家の由緒来歴。
とりわけ熾仁親王に関する話でした。
 
最初は淡々と話されていましたが、だんだん熱が入り、許嫁和宮との破談、鳥羽伏見の戦い、
上野彰義隊との交戦などに話が移り、復習をかねて聞き入りました。
「宮さん、宮さん、お馬の前に」の歌が熾仁親王のことだとは知らなかった。
 
宮さんの歌は「トンヤレ節」といいます=宮さん宮さん、お馬の前にひらひらするのはなんじゃいな。
 
中庭
中庭
 
有栖川宮家は第10代威仁親王が1913年52歳で薨去し、男系の後継者がいなかったため絶家が確定。
威仁親王を慕う大正天皇(1879−1926)は有栖川宮の維新後の功績を慮り、ご自身の第三皇子(昭和天皇の弟)
に将来的に高松宮の称号を与えられ、有栖川宮の祭祀を継承された。
 
東京都港区南麻布にある「有栖川公園」は威仁親王の御用地兼邸宅でしたが、1913年高松宮に継承され、
高松宮御用地となり、その後1934年、御用地約11000坪を高松宮が東京市に下賜、
有栖川宮(記念)公園となりました。
 
フジバカマ  中庭
フジバカマ  中庭
 
有栖川宮で思い出すのは2003年の「有栖川宮詐欺事件」です。
 
有栖川宮の落胤とその妃が東京にあらわれ、男は有栖川識仁(さとひと)と名乗り、妃殿下有栖川晴美が
広告塔の役割を担い、男を殿下と呼んでいました。
青山で結婚披露宴を催し、約400名の出席者から祝金などをだましとったとされます。石田純一もいました。
 
逮捕された有栖川晴美は、有栖川はブランド名とうそぶいていたけれど、ある意味蠱惑的な女性(当時45歳)。
やんごとなき御方で品と色気を兼ね備えていたのは待賢門院璋子さんが突出しているように思います。
有栖川晴美氏は熊本出身とかで、品はなけれど色気ありという方。有栖川識仁&晴美氏が近年に至っても
以前のように有栖川宮として活動されているというのはほんとうですか。
 
 
香りあそび
香りあそび
 
3種類の匂い袋が台の上に置かれています(台は3個)。匂い袋のなかに香木が入っていて、
どの香りかあてるあそび。三つの袋に必ずしも3種類の香木が別々に入っているとはかぎりません。
 
 
 
 
有栖館と名づけた平安女学院幹部の意向を想像すると、英国の「不思議の国のアリス」が
女学院とマッチするかもしれません。香道、匂い袋などいかにもそれらしい気がしますし、
舞妓さんの絵もなんとなくアリスの館に適しているような。
 
 
 
京都御苑の曼珠沙華
京都御苑の曼珠沙華
 
 
京都御苑の百日紅
京都御苑の百日紅
 
ことしのサルスベリは長々咲いています。例年に較べて早い7月上旬に咲きはじめ、
8月末になってもまだ咲いていて、9月になっても、お彼岸になってもまだ咲いていました。