上の人物(イスに座っている)のが有栖川宮熾仁(たるひと)親王(1835−1895)、
下は有栖川宮威仁(たけひと)親王(1862−1913)、と有栖川宮妃慰子(やすこ)。慰子は加賀藩最後の
藩主前田慶寧(よしやす 1830−1874)の四女。
熾仁親王は和宮親子(ちかこ)内親王の婚約者でした。和宮が江戸に降嫁したため婚儀は成立せず、
維新後、徳川慶喜の妹貞子を最初の妃に迎えます。その2年後、貞子がは23歳で病没、1873年、
新発田藩主の七女と再婚しました。
熾仁親王は長州を擁護し孝明天皇の怒りを買いましたが、その後は三職(総裁・議定・参与)をつとめ、
明治天皇を支えます。三職の廃止後、兵部卿〜福岡県知事〜元老院議長に就任、西南戦争時、
かつて政府軍を共に指揮した西郷隆盛を征討する任務につき、西郷軍を制圧します。
1877年10月、西南戦争の功労者となった熾仁親王は西郷に次ぎ二人目の陸軍大将に任命されます。
西南戦争中、日本赤十字社(博愛社)設立をはたらきかけた佐野常民らの精神(味方・敵の別なく救護)を
尊び、政府へ諮問せず設立を認可。かくして日本赤十字社は発足します。
熾仁親王の熊本の宿舎は熊本洋学校教師館ジェーンズ邸(洋学校は1876年に閉鎖。ジェーンズは
同年大阪英語学校に教師として赴任)でした。その館に博愛社(日本赤十字社)が設立されたとのことです。
2016年4月14日の熊本地震によって建物の壁が崩落し、16日の地震で建物は崩壊。
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