Sep. 23,2015 Wed    シリア難民問題に思うこと
 
 バーミヤンの石仏がイスラム教原理主義者タリバンに破壊されて何年たったろう。遠い昔のようにも数ヶ月前のようにも思うけれど、2001年3月12日のことだった。小生がHPを起ちあげたのはその5日後で、ボケ防止のためと口からでまかせを言ったが、バーミヤンの石仏が破壊され意気消沈し、それからまもなく頭に血がのぼったのが起ちあげの動機だった。
 
 意気消沈は重層的であり、バーミヤンを旅した者のひとりとして、あのすばらしいロケーションにそびえる崖をくりぬいて造られた2体の石仏の見事なたたずまい、石仏のてっぺんにのぼると正面に見えるヒンズークシ山脈の雄姿、昼夜の気温差が35℃以上というすさまじさ、そして大自然の荘厳な美しさ。石仏は風景を引き立てるといわんばかりに屹立していた。
 
 再訪したいと思っていたら1973年クーデターがおこり、国王(ザーヒル・シャー 1914ー2007)はイタリアに亡命を余儀なくされる。アフガニスタン国内は物騒になり、1979年ソ連が侵攻、1989年に撤退するまで戦争、その後も内戦状態がつづき、地方の部族長のほかにタリバンがのさばり、タリバンの次はビンラディンほか与太者が絶え間なく来てはアフガニスタンを食い荒らした。
 
 2001年にはニューヨークで9.11が勃発、世界の警察を自認していた米国が意外な弱さを露呈し、21世紀が始まって早々、不安定さとそれゆえに国家間の連帯・協力が必須であることを想起させることとなった。
イスラム教過激派はジハード(聖戦)という、しかしジハードは本来「奮闘努力」の意であり、信仰の道に向かって努力することをいう。そしてまたジハードは平和な世界を守るために努力を重ねることであり、その自己達成の過程を戦いにたとえているのである。(「きょうのトピック 2001年9月13日 神話の崩壊」)。
 
 近年、イスラム国というならず者が仕切る集団が国家を自称している。ならず者にはそれなりの金科玉条があって、それは神は自分の側にあるということだ。神は自分の側にあるから、誤った解釈のジハード実践を使命とこころえている。こころえ違いもいいところなのだが、価値観の相違はいかんともしがたい。中国の台頭とともに21世紀はキリスト教的欧米、イスラム教的中東、儒教的中国の三極構造となることは必至である(「きょうのトピック 2001年9月15日 米国の真意 または三極構造」)。
 
 イスラム国の台頭で迷惑しているのは敬虔なイスラム教徒である。シリア難民はしかし迷惑ではすまない。着のみ着のまま家を追われ放浪の民となっているのだ。データが概ね正しければ、シリア国民約1800万人(2014)のうち国内の700万人と国外の400万人が難民であれば、国民の3分の2ほどが難民ということになる。
シリア難民の多くは家族がばらばらになって、体調のわるい人をのぞく人々が国外に逃れているという。逃れるにしても、逃亡資金を調達できない人々は残らざるをえない。艱難辛苦を覚悟で逃れるのは、イスラム国のならず者(場合によってはシリアのアサド軍兵士)の銃で撃たれる不安が消えるからだ。
 
 ISの暴挙は常軌を逸し憤懣やるかたなく、思い出せば嫌悪感でいっぱいになる。イラクのハトラ遺跡の破壊につづいて今年8月24日ごろ、シリアのパルミラ遺跡も破壊した。
あれは1972年11月だったか、毎日新聞社主催の研修旅行「中東歴訪24日間」が企画されたのは。その企画のなかにハトラもパルミラも含まれており、さらにヨルダンのペトラ遺跡、ダマスカス博、バグダッド博などの博物館見学、ベイルート観光もあり、おまけに講師の名は忘れたけれど、著名な学者のガイドも付いて至れり尽くせり、人数限定ということもありすぐ申し込んだ。
 
 学者、専門家については、当方に選択の余地があるのなら極力選ばねばならない。1970年代初頭、東西交渉史の松田壽男(早稲田大学 1903−1982)は毎日新聞社と密接なつながりがあり、松田先生の講義を文学部へ聴講にいったものだ。松田先生は毎日新聞社主催のツアーに特別講師として同行されたこともあったと記憶している。
 
 古代西北インドと西アジア史、特にガンダーラ仏なら東京大学総合研究資料館に在籍していた田辺勝美さんである。
東京大学大学院で古代ペルシャ美術史の深井晋司(1924−1985)に師事した田辺さんは、ペシャワール大学に留学し、主にガンダーラ仏と西域コインを研究したが、それを勧めたのが深井先生であった。深井先生の急死は田辺さんのその後に変化をもたらした。
 
 田辺さんの研究室を何度か訪ね、ある日Mさんを伴い訪ねたとき、東洋文化研究所のメンバー中根千枝はどのような人か田辺さんに聞いた記憶がある。
ガンダーラ仏に関してMさんが質問を投げかけたのかどうかも、話の内容も忘れてしまった。1982年であったか、三越百貨店日本橋本店で開催された「古代ペルシャ秘宝展」に展示されたガンダーラ仏の贋作問題について田辺さんが登場するとはMさんも予想だにしなかったろう。
 
 当時の三越社長・岡田茂(1914−1995)は超ワンマンぶりから岡田天皇と称され、三越主催の企画の一部を愛人・竹久みち(1930−2009)に一任していた。「古代ペルシャ秘宝展」に竹久みちが関わっていたことは周知の事実。岡田は贋作事件が発端となった一連のスキャンダル、背任行為によって起訴され有罪となるが、上告中に病死する。
贋作事件は予想外の展開になってゆく。しかし過去の類例をみても、思わぬところからほころびが広がり、巨像が倒れるのは歴史の示すとおりである。
 
 そのころ、門外漢といってもいい私なのになぜか分析力が冴えていて、様式的、図像学的にあのガンダーラ仏は贋作であると感じた。まして田辺さんは欧米の学者・専門家の誰もが認めるガンダーラ仏の世界的権威であった。
世に学識経験者という。が、学識はあっても経験のある学者・専門家は少ない。田辺さんは2年余りのペシャワール大学(パキスタン)留学中にペシャワール、ラホール、タキシラなどガンダーラ仏の本場で自らの学識を経験によって鍛えぬき、眼力をそなえ、真の学識経験者となった。
 
 ラホール博、タキシラ博で行動をともにした私は、それぞれの博物館の副館長と人間関係を築いた田辺さんの博識と経験を目のあたりにしている。「ふだん館長はいません。副館長が実権をにぎっているので、仏像撮影の許可は副館長が決めます。」と田辺さんは言った。
私が知っているだけでも田辺さんはウルドゥー語、フランス語、英語をよどみなく話した。ガンダーラ仏の特長や様式の詳細を教えてくれたのも田辺さんである。ヨーロッパ系学者の専門書に記されていないことを知り、読んでもわかりにくい部分を魔法にかかったかのごとく理解した。そして学識経験の何たるやを知った。
 
 ペルシャ秘宝展の推奨文を書いた「仏像の起源」の著者で元・文化財研究所美術部長&東北大名誉教授の高田修(1907ー2006)はだんまりを通したが、高田修の教え子たち(官立大学の教授)は師を擁護した。しかし高田修も教え子もガンダーラ仏の専門家ではない。
「仏像の起源」についていえば、図版を参考にするのは構わないけれど、解説文はあまり参考にならない。いや、参考にするのを避けるべきだ。誰が執筆したか定かではない文章の寄せ集めであり、首をかしげたくなるものも混じっている。
 
 1987年だったか、奈良国立博物館に展示されたガンダーラ石造菩薩立像をめぐっての真贋論争は田辺さんの提議(公開質問状)によってはじまる。奈良博は提議を無視するかたちをとるが、事はそう簡単におさまらず、真贋双方の立場で議論は二分される。
日本美術史、とりわけ仏教彫刻の専門家・町田甲一(1916−1993)は田辺さんを擁護した。「田辺さんの専門はガンダーラ仏。世界の田辺勝美が贋作といっているのだから、そうに違いない」。奈良博の菩薩立像はその後、科学的調査や欧米の専門家によるある種のみそぎを経て贋作といわざるをえないということになった。
 
 話は前後する。1972年12月、ビザ取得など必要な手配を担当者にすませてもらった直後、Mさんに中東歴訪研修の旅について打ち明けた。旅行期間中にMさんが手配したD証券の面接があったからだ。Mさんのいうには、「話はついているから面接だけ受けてね」ということだった。
 
 Mさんは烈火のごとく怒った。面接に行かなければ私が就職難民になることは火を見るよりも明らか、そうなればMさんの計画は宙に浮く。Mさんの剣幕に圧倒され、誰が考えても私に証券会社は合わないと言いたいのを飲みこんだ。家庭を築くには就職が第一条件である。そのあとどんな会話があったのかおぼえていない。
その会話のあと研修旅行をキャンセルした。電話に出た人が、「ビザがほしかったのでは」と言った。言われて気づいたのは、国によってビザの発給は制限されていて、個人では観光ビザでさえ取りにくい場合もあることだった。結局、旅行にも面接にも行かなかった。自らの道を貫くには犠牲をともなう。そのときは自分の意思を曲げるほかなく、同時に就職も避けた。
 
 数年後、東洋文化研究所から池袋の古代オリエント博物館に移った田辺さんがハトラ遺跡の発掘調査隊長として現地へ赴くことになったとき、「一緒に行きませんか」とさそってくれた。
光栄というより恥ずかしかった。アジアアフリカ語学院(三鷹)でのアラビア語修得を途中でやめ、英語のほかに身につけた外国語はなく、ハトラ遺跡についてもイラク古代史についても不勉強な私になんの資格があろう。それを承知で声をかけてくれた田辺さんへの申し訳なさで恥じいるばかりだった。
 
 田辺さんはその後、金沢大学と中央大学の教授を歴任した。直近では、平成27年5月刊の「佛教藝術 340号」(特集 シルクロードの文化交流)に「テラコッタ製鋳型に関する一考察―ガンダーラの所謂化粧皿の図像のモデルをめぐって―」という学術論文を上梓している。
 
 ハトラもパルミラも幻となってしまった。バーミヤンの石仏がタリバンによって爆破されたとき、みるべきものはみるべき時にみなければならない、でなければ、永遠に出会う機会を失うかもしれないと実感した。それはいわば鉄則であり、旅、人間などすべての事象にあてはまる。亭主は女房を放置して旅に出ることを場合によって控えたほうがいいけれど、女房は亭主をほっぱらかしても旅に出るべきである。
 
 それはともかくダブリン条約によると、「難民が入国したら、その国が難民を受け入れ、問題を解決しなければならない」と記され、ドイツ基本法(憲法にあたる)第16条Aによると、「迫害されている人々=難民=の定義は政治的迫害を受けた者」と規定し、難民受け入れについて言及している。ドイツ首相メルケルは言う、「人間の尊厳を軽んじる者は容赦しない」。メルケルは難民の尊厳を重視しているけれど、難民にも自国民にも尊厳はある。
 
 EU諸国にはそれぞれの国内事情があり、ハンガリー、チェコ、ルーマニアのように難民受け入れに否定的な国もある。EU総出とまでいかなくても多くの国がシリア難民を受け入れるのは人道主義に基づき、特にドイツが積極的なのは、ナチスによるユダヤ人排斥殺戮の苦い歴史があり、自省と自戒の念が国民的合意となって難民救出へ向かわせるのだろう。
 
 難民のなかにテロリストがまじっているかもしれないという問題について、あるテレビ番組で駐日ドイツ大使は、「テロリストはそんな危険ことはしない。国境を越えるには別の安全策がある。ゼロとは断言できないが、難民のなかのテロリストは限りなくゼロ」と言っていた。ドイツ大使の発言はテロリストの入国を未然に防ぐのは難しいことを暗示している。
 
 海からギリシャに入国する人は難破という危険がつきまとうし、陸路でオーストリアなどへ移動する人たちにも危険はある。そこへもってきてハンガリーの国境封鎖は何事か。セルビアからハンガリーに入国できなければとクロアチア経由になる。クロアチアの一部にはコソボなどの紛争時に埋められた地雷がそのまま残されている。地雷を踏まずにすむルートをクロアチア政府が確実に教える保証はあるのか。
 
 シリア難民の必需品はスマートフォンだという。スマートフォンが生命線という人もいる。毎日移動しなければならない難民が必要不可欠な情報を得るために。危害を加えた兵士の画像をしかるべき場所に送付するために。充電は道中の駅、ガソリンスタンドなどで、通信料金は念のため引き落とし銀行にそれなりの預金を残して。
 
 国家として合理主義のかたまりドイツを好きになれないとして、ギリシャ問題など難しい案件を克服すべくがんばっている姿を見るにつけ、英国がドイツやフランスに歩調を合わせシリア難民問題に取り組むようすを聞くにつけ、さすがEU、英国と感心し、困難な問題を乗り越えるたびにドイツも英国も強くなっていくのだろう。
だが難民を受けいれることにどれほどの市民が同意しているのか。国の方針だからといって、経済的負担の大きい問題をすんなり受けいれられるものなのだろうか。経済大国ドイツが中心となって決定することを快く思う市民がEU加盟国の多数派であるとは思えない状況のなか、EUはどう舵取りをしてゆくのだろうか。展望はあるのだろうか。
 
 
               真贋論争の対象は表向きガンダーラ仏とされる石造弥勒菩薩立像 168cm 200kg超


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