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弟は小学校3年生。妹は5年。小生は中学校1年。左端に母。家族旅行。
保養所がどこか思い出せません。
小学生のころ妹は足が速く、徒競走で常に1等賞。クラス対抗リレーでアンカー。
5位からゴボウ抜きして優勝。弟も運動は得意でした。ヘソが見えてる。
気づいた父は、おもしろいと思ってそのままに。
保養所は和歌山県の海浜温泉、伊豆の湯治場など全国に散らばり、
あちこち家族で行って写真撮影。時が過ぎ、この2枚だけ残っています。
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上の写真と同じ日。後ろ姿は妹、母。
妹とは高校も同じ。高校の体育大会で小生のクラスの「仮装行列」を見ていた。
「うすくち手帖」2020年6月10日「ガリヴァーと麦わら帽子」です。
駅のホームや通学路で、このころの妹と後ろ姿が似ている子を見かけます。
それまでそんな経験一度もなかったのに、妹が旅立って何年かたち、
小学校時代の後ろ姿が見えるようになりました。幻影はなぜかリアルなのです。
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中学2年の2学期に転校(越境入学)しました。転校先の校則で丸刈り。
9月の新学期、教室で夏休みの宿題の答え合わせをやっている。
小生は転校生ゆえ当然なし。
当時の机は2人用。空いていたのはそこだけ。手持ちぶさたで隣を見る。
宿題帳の英語の書換え。受身形(受動態)なのに動詞は過去形。
「きみ、まちがっているよ」と言ったらしい。それが伴侶の姉。
そんなこと忘れたが、姉はおぼえていた。わたし、飼犬の名前も忘れた。
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「巣ごもり暇つぶしSP」に掲載。再登場。色が白いか黒いかの比較です。
伴侶が「長男は後を継がず医者になった」とか、「弟は剣道を教えていた」とか
の話をし、誰の長男か弟かわからないまま話が進む。
問いただすと、明治生まれを親に持つ長男で、弟は大正生まれとわかる。
伴侶の頭のなかに時系列も人物も収納整理されているので問題ないか。
子どものころ見聞きしたことや、母親から聞かされことの詳細をおぼえている。
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左は従姉(父方)、右は叔父の奥さん(父親の継弟の嫁)。
叔父にはもったいないほどできた方だったそうです。
叔父のあだなはQちゃん。オバQから取ったのか。
岳父の告別式の朝、小生と鳥取の従兄(後出)が準備を
手伝っていたとき、どこからともなく現われ、Yシャツの袖をまくりながら
声をかけてきた。「井上さ〜ん、福田さ〜ん」。
会うのは初めて。10歳以上は年上。年来の友みたいに親しげ。
それが噂のQちゃん。伴侶曰く、お調子者。いいえ、ある種の才能。
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小学生のころ、飼っていた柴犬のチロ。
姉が通う高校まで見送りした。高校は家のそば。
幼児用すべり台は弟が使っていた。
つっかけをひっくり返して上がったのは姉に違いない。
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チロは死にました。
次は雑種のクロ。かなりアホ。スリッパ、靴をくわえては散らかす。
叱っても直らないままあの世へ。
中学時代、卓球部で3年間鍛えました。姉と変わらぬ色黒に。
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夏はいつもガラ空きの正伝寺へ。
上賀茂神社バス停から正伝寺まで歩き、帰りは賀茂川の河川敷を
北大路まで、時に河原町今出川あたりまで歩きました。
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小豆島の造成現場を視察。隣は鳥取の従兄(母方)。色違いのスウェードの靴は
スイスB社の香港Pホテル店で購入。足の長さも違う。
小豆島へ行きはじめのころは神戸港=坂手港のフェリー。姫路港=福田港のほうが
便数も多く、トータル時間も短いので、姫路港フェリーを利用するようになりました。
不思議なのは雨に一度もあわなかったこと。従兄は晴れ男です。
金閣寺に雪が積ったという知らせが入ると、やりくりして一緒に京都へ。運転は従兄。
運転のうまさは段違い。
料理人でもあった従兄は、月に1、2度だけ台所に立った。女性が腕をふるうときは
知らん顔で、できたものを黙って食べていた。控えめで寡黙。
「そりゃなかろうぜ」、従兄が独特の口調でそう言うと座がくつろぎ、思い出話が佳境に
入ると従兄の目は潤みました。
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N航空だったかN航空系ホテルズだったかが香港に所有していたヨットの船室。
従兄と伴侶、後ろ右から谷沢さん、母、義弟。
谷沢さんの喉はプロ級。酒は飲めないのに退職後も活躍。
2016年ごろ久しぶりに偶然、出くわす。
「居酒屋から声がかかって、毎晩のように行ってます」と愉しそうに語っていた。
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香港の宿26Fに大中の宴会場と小室があり、一室で卓囲み。
夕食後10時ごろから始め、終わった時刻はおぼえていません。
みなさんお酒が入っているせいかダルそう。香港の牌はでかい。積みにくい。
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右から谷沢さん、妹、母、小生、伴侶、従兄。
右端のベレー帽の方は地元の人に広東語で話しかけられ、現場にいた妹が、
「現地人に間違えられたワンさん」と陰口を。
ワンさんと小生はどうしようもないほど革ジャンが似合わない。
某ブランド店で買う気満々のワンさんが青ねずみ色の革ジャンを試着したら、
ドヤ街の中国人。
鏡に映った自分を見てさすがに似合わないと思ったのか、買わなかった。
翌日ブランド店長とばったり会う。彼がワンさんの話をして笑うの笑わないの。
妹も伴侶も一緒に笑っていました。
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到着日、大型台風が香港付近に上陸するとの予報が流れたため、
レストランなどの従業員は自宅へ帰らされ閉店。夕食予約は取り消し。
どうなったかというと、知り合いのホテルマンが日本料理店「金田中」に
テイクアウトのにぎり寿司を手配。24人分。おかげで晩メシにありつけた。
台風はすごかった。
夕方から深夜まで、すさまじい雨風。部屋に閉じこもっておりました。
写真は翌日の午前。ヘンな空。ポツポツきたが、午後は快晴。
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昭和49年ごろ。元女優はこのころ独身で現役。
ほかの女性は木挽(こびき)町の淡島事務所のスタッフ。
BK氏の箱根の別荘。いつでも誰でも使ってもらっていいよと。
鍵は淡島千景経由。別荘から仙石原が近いので食前散歩に。
女優と背中の女性が夕飯づくりを担当。
女優の母親は祇園に住んでいたこともあり、料理の腕は名人級。
引っ越したあとも、来客の饗応食材は錦市場で調達して
おられた。女優は母親ほどでもない、が、いい線。
牌打ち合戦後、ステキな楕円形内風呂(常に湯の湧く温泉)。
温泉宿の気分。全員入れる大きな風呂。トップバッターでした。
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1980年半ば〜90年半ば、二つの定宿は部屋の眺望か洗練かによって
使い分けていました。
眺めのいい宿とB1でつながっている日本料理店。このコーナーはテーブル席手前の
奥まった場所にあって、夜の鉄板焼き専用。対岸は香港島。
料理屋へ初めて8人で入ったとき、チーフ格の従業員が、鉄板にかぶせてあった幌を
取り払い、「こちらへどうぞ」。
香港滞在中、ここで食べるのは決まって肉うどん。妹はざるそばを食べましたが、
みながあまりにおいしそうに食べているのを見て、それからは肉うどん。
うどんが見えないほどの霜降り肉。うどんは手打ち、腰がある。味は一流、値段は三流。
感心したのは従業員の記憶力。半年後、1年後に行っても顔と名前をおぼえている。
いつ来ても独立性を保つこのコーナーへ通された。わたし眠そう。
肉うどんに関しては、「思い出レストラン」2019年2月19日「銀座 香港」。
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船がいっぱい。
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香港島レパルス・ベイのホテル前。右側は年輩組、左側は若者組。
年輩組はおそろいのセーターです。
年輩組左端の黒っぽいスーツに帽子は小生の母。妹の子が混じっている。
妹の子が初めておぼえた英語は、伴侶が教えたオーマイゴッド、会話を
聞いておぼえたディムラー(英国製の車)とノーノー。
旧型ディムラーは80年代半ばから90年代半ば、空港送迎やピークに上るとき
などに利用したリムジン(定宿が12台所有?)。
蘊蓄をいえば、英国はDaimlerと書いてディムラーと発音。ダイムラーはドイツ。
ジャガーと同型車のディムラーではなく、旧型ディムラーは後部座席が広大、
ルーフが高く楽々乗車。向かい合って座る。
色は濃いグレー。これに2人づつ乗車。気分だけ大富豪、または成金。
おチビは2回目の香港で親指を立てディムラー。おぼえた英語は使いたい。
当時、別の定宿のリムジンはRR社のシルバー・スピリット(ダークグリーン)。
後部の室内空間は狭い。車の話は長い。
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ホテルのリムジン旧型ディムラーとほぼ同型。フロントグリルのデザインが異なります。
丸〜いトランクのデザインも個性的。製造は1960年代。
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定宿(九龍半島)Pホテル「中2階」の朝食用レストランでドライフラワーズの方々と。
この数年後、右端の方の喜寿祝いに母が何か差し上げたいと言うと、
「香港につれていってください」。
当時、Pホテル「1階」(グランドフロア)のカフェはアイスティーが超のつくほど美味。
朝食用レストラン自家製マーマレードは英国ゆずり。淹れたてのコーヒーもまずまず。
トーストは頼めば焼きたてを持ってくる。小さめ薄切りをこんがり焼く。英国流です。
食器(カップ、スプーン、ポットなど)はホテルのオリジナル。
昔、米国女優シャーリー・マクレーンがフォークとナイフを持ち去ろうとした。
マーマレードの濃厚な色と味が薄くなった朝、品のある老夫婦の奥さんが給仕に
何か伝え、支配人が飛んできた。
奥さんのクィーンズ・イングリッシュがよみがえる。「これはマーマレードじゃない」。
常連だけにわかる変化。彼女が言わなければ小生が言ったかもしれません。
顔なじみだから見過ごすというのでは名門の看板が泣く。支配人は丁重に
あやまり、マーマレードを下げました。一事が万事。凋落は些細なことから始まる。
このホテルをチェックアウトし、リムジンに乗りこもうとしたそのとき、
人の良さそうなベルボーイ(まさに少年でした)が追ってきて何か渡そうとする。
誰も心当たりなし。あっち向いていたワンさん、彼を追い払うような迷惑顔で「ノー、ノー」。
室内のゴミ箱に捨てればいいものを、机かイスの上にでも置いてきたのでしょう、
スーパーの袋に包んだワンさんの下着。
忘れ物かと親切に届けにきたベルボーイに対するワンさんの「態度が悪い、ファミリーの恥だ」、
妹がカンカンになって怒っていました。
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レパルス・ベイのホテルでランチ。
何を食ったのか。肉うどんとか焼そばのほうがいいのですが、気分をかえて。
倉敷で開業されている医師ご夫妻をご招待したときだと思います。宿泊はPホテル。
夜景を見るためRホテルに泊まってもらった弟夫婦の全面総ガラス張り部屋へ。
対岸に突然カミナリ。香港島の稜線の上空から鋭く折れ曲がる稲妻。
一度に何本も、次から次へ。壮大なスケール。大音響も伝わる。
大きな稲妻が同時に光ると100万ドルの夜景より遥かに明るい。光り終わった後、
100万ドルは一瞬、闇。
そういうの初めて。約15分続いた。医師が、「すごい。アフリカにいるようだ」。
カミナリが去ったあと、100万ドルの夜景を誰も話題にしなかった。
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夕食からもどってきたら、宿のエントランス前にRR社の金ぴかファントム(6代目)。
わたしも伴侶も、豪華、絢爛は受けいれますが、金満シーンは苦手。
谷沢さんのワンさん話で伴侶が、「間違えられたこと、あったよ」。
まさかと思って記憶をたどれば、ホテル横のネイザンロードを渡っていたとき、広東語
で何かたずねられ、「ノーノー」と言ったら、相手は意外な顔していた。
ワンさんよりブンさんのほうが早かった。
香港は活気にあふれ、解放感そのものでした。行った人全員が満たされました。
中国返還の数年前、香港の友人(「中国は百年遅れている」と言ってた)はカナダに移住。
香港行きは1995年で打ち切りました。返還を境に古き良き時代は終わったのです。
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寸劇「地蔵物語」の出演者(一部)。地蔵はワンさん。
大阪の料亭に月例会として行っていた時期がありました。酒を飲まないワンさんは冷えた
ウーロン茶を注文する。喉が渇いているのか一気にがぶ飲み。2杯目もがぶ飲み。
それで終わらず3杯目、4杯目を注文。
帰りの車のなかで妹が、「タダだと思ってる。ちょっと考えればわかるのに考えない」。
ウーロン茶1杯もビール1本も同じ料金。
妹と伴侶が結託し、ドリンクのメニューをワンさんに渡したが、開きもせず隣の人に回す。
こりゃダメだと妹・伴侶が顔を見合わせる。空気も読めず、ワンさんは結局、ウーロン茶が
有料だと気づかないまま時は過ぎ去りました。
京都へ遊びに行った帰り、老舗和菓子店で生菓子を買う。夜も更けてお茶。
ワンさんは一口でバクッと食べてしまう。ほとんど噛まない。
あとで妹の怒ること。「味わうことを知らない。何を食べさせても同じだ」。
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寸劇「騎士物語パート1」の出演者。撮影したのはワンさん。
左から義妹、Kさん(「うすくち手帖」の「香港夜繪」)、義弟、弟、田野さん、伴侶、Tさん、小生。
妹、伴侶が、いつか忠臣蔵をやったら、吉良上野介は義弟にと。憎まれ役が似合う。
Tさんは英国の女王。田野さんと義弟は悪役。
「騎士物語パート2」は衣装の仕立てがよく、豪華。写真は引っ越しのどさくさで紛失。
生地はほとんどテーブルクロス地、カーテン地。木村のおばばが担当。パート1の衣装は雑。
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毎年春秋、見知った方々と数台の車に分乗しドライブの旅へ。
このとき1泊目は霧ヶ峰。11月上旬。写真は美ヶ原?
後部に陣取り、枯れ草にも「トレビアン」を発した木村のおばば(右端)。
霧ヶ峰高原ホテルだったかに泊まった翌朝、宿の人に頼んで、
大きなヤカンで湯を沸かす。
持参の挽き豆、ドリップ一式でコーヒーを淹れ、紙コップで飲みました。
霧ヶ峰の水のおいしかったこと。コーヒーの天然水使用はそれが起源。
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昭和60年5月だったと記憶しています。
金比羅歌舞伎が初めて金丸座で催され、吉右衛門や澤村藤十郎がお練りに繰り出す。
翌朝、祖谷(いや)へ。国道を分かれて車1台しか通れないような狭い道。
急カーブがつづき、見通しもよくない。やっとこさ「かずら橋」到着。秘境といえば秘境。
翌年晩秋、夕食の招待で高松市北東部の屋島へ。着いたとき、とっぷり日も暮れ、
眼前に屋島の黒影が浮かんでいた。不気味で荘厳。
帰って真っ先にしたのは、岩波の新古典文学大系「平家物語」上・下を買ったこと。
かずら橋、そして夜の屋島を見て、平家物語を本格的に読みはじめました。
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各地から集まっています。左下の男性は、香港の元女優の旦那さま。
画像最下に置かれた酢豚は伴侶製。谷沢氏の好物。
酢豚は面倒だからと、ここ1年以上つくっておらず、味を忘れた。
紋別市小向(こむかい)にあった旧紋別空港から札幌・丘珠空港へ向かう
日本近距離航空(19人乗りプロペラ機)の機影が見えなくなるまで空港の
屋上から小生を何度も見送ってくれた紋別の方たち。
超小型飛行機はその後、YS11になりました。ガラ空きだったけどね。
眼下の紺碧のオホーツク海、コムケ湖、紋別の人々、忘れられません。
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上の場所と別の場所。拝殿の上がり台の色が異なる。
左2番目に地蔵のワンさん(赤 谷沢氏)。中央は踊りの師匠(ブルー)。
寅年の師匠の芸は日舞だけではありません、座持ちの名人。
料理は各所からの持ち寄りだったと思います。
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餅つきは年末の恒例行事でした。毎年ほぼ12月28日。
不思議と晴れました。餅をついているのは伴侶。
伴侶の母が5歳の孫(男の子 長女の子)を連れて手伝いに。
孫はつきたての小餅を食ってた。
昭和40年代〜50年代前半、鏡餅づくりは先代の会長が
つとめ、病気を機に別の人が継承しました。
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母からよく「若年寄」と言われました。35歳を過ぎて餅はつかなかった。
北野天満宮は20代後半からほぼ毎年、2月下旬〜3月中旬に行きました。
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2歳半で初めて内地に来て半月経過し、ママに抱っこされカレーパンを食べていた。
小生が、「ちょっと頂戴」と言っても全然くれない。そっぽ向いている。
3度お願いして、ママが、「これだけ言うのだから少しあげなさい」。
沈黙があり、やっと爪先でちぎってくれた。微小で1センチ足らず。カレーなし。
それからさらに1ヶ月半たって、すこしは落ち着いたのか、舌出している。
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カレーパンの女の子。小学3年生。この子が3歳くらいのとき、
買物ごっこを教えました。
えんじ色に葵の紋(金色)入り印籠は、6X4X1センチの目覚まし時計。
「お時間でござる」と発信する。おチビのお気に入り。
3歳はやる気満々。目覚まし時計もクレヨン1本も何でも850円。
「850円、安いよ、安いよ」とおチビ。ママが一声、「買った!」。
伴侶の18Kネックレス。そこでおチビが、「お時間でごじゃる」。
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93年4月か10月。白金の女子(青色)はハイキング初参加。
金剛山へ。小学4年生。
ほかに小学生2名。足に自信がないという女性も1名いた
ので、上りはロープウェイ、下りは歩き。
けっこうな急斜面。女子の右手は木に、
左手は黄色のセーターの人に支えられて。
当時のハイキング・メンバーは寸劇出演者など約20名。
日曜実施でラッシュなし。
ハイキングは1981年春から1994年春まで毎年春秋2回、
曽爾高原、山辺の道ほか27回歩きました。
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朝が非常に早かったため、電車のターミナル駅の売店は開店しておらず、
到着駅は販売店なし。弁当を買うつもりで買えなかった姉妹がいました。
そんなこと、誰もランチタイムまで知らなかった。
どうなったかというと、ワンさんとブンさんがそれぞれ半分ずつ提供。
「いいです、いいです」とおっしゃっておられましたが、そういうわけには。
ほかの人たちもおかずを少し分けはじめた。姉妹に貸した弁当のふたは
食料であふれんばかり。見比べると、姉妹のほうが量は多い。
いまさら分けてくださいとは言えません。姉妹は20代後半、ぺろりと平らげた。
ワンさんは弁当を食べ終わっても腹ぺこだったと思います。よく食べるので。
弁当はここで食べました。川の水が澄んできれいだったことより、そっちのほう
をよくおぼえています。
帰りの電車でワンさん、「お茶は腹の足しになりませんな」。
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室生寺から宇陀川に沿って大野寺まで歩き、磨崖仏を見ました。
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奈良公園。鷺池には浮見堂。このときは白毫寺まで歩き、Uターンして若草山に登りました。
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弟夫婦、妹の子、伴侶。
妹の子はこのくらいの年ごろ、4歳年上のカレーパンの女の子と一緒に日々来訪。
定番コースは、ワンさんの執務室へ行って、机の上の駄菓子をつまみ食い。
そして机の隅にある「モグラたたき」をたたく。ワンさんの好物「オロナミンC」は無視。
ワンさんはオロナミンCをまとめ買い。日に3本飲み、飲むたびにゲップ。子らは見ていた。
その後、弟の事務室で初期のパソコンを見て、遊びはじめる。
最後は小生の部屋。邪魔したくないとの配慮か、無言のまま書棚に置かれた
文具(ペン入れ、ルーペ、△定規、鉛筆削りなど)を一つずつさわって去る。
ワンさんはおチビふたりに「モグちゃん」と呼ばれていました。伴侶は「モグさん」。
もぐさ(艾)は子どものころのお灸を思い出す。
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妹の子、母、妹、伴侶。うしろは背後霊。
母の家で伴侶がこの子とひそひそ話をしている。
床の間の置物(高さ50センチほど)を見て「チュボ」。
妹が言うには、義弟がツボにヘソクリを隠していたらしい。
それで置物を指さし、「ツボ」という言葉を教えていた。
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背後霊。いざ出発。結構なスピードが出ます。コースも長い。
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倉敷で開業されている医師(外科)ご夫妻の招待で何処かへ。
左の年輩男性は倉敷の開業医。妹の子を支えているのは奥さま(祥子さん)。
夫妻は私たちと香港でカミナリを見ました。
後列右から2番目は吟子さん(尾道の産婦人科医)。左は母親(医者の奥さま)。
倉敷、尾道の奥さまは姉妹で、祥子さんが姉。姉妹の実家は医者一族。
「接待をされたら私忘れない」という川柳(仲畑流万能川柳文庫32)
がありました。そんなことはない。場所も日にちも料理も忘れた。
祥子という名は昭和初期にしてはモダン。祥子さんもご主人もすばらしい方でした。
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近影。2017年7月。カメラを構えた瞬間、伴侶が通りかかった。
過ぎ去ったことは、きょう思い出せても、あした忘れるかもしれません。
きょう仲良く、あした喧嘩しても、思い出は宝ものです。
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