Dec. 16,2018 Sun    きみ知るや古都の日々(5)
 
 2005年12月20日「手紙」に始まった「書き句け庫」の連載は2018年8月5日「旅、そして旅(5)」で終わった。その人が私に書いた最後の手紙が連載最終のエピローグである。
Mさんの手紙は現存しない。別れる前にぜんぶ送り返した。手紙の内容は記憶。記憶が確かであると言い切れるのは、Mさんの手紙は生きているからだ。記憶のなかでさえ魅了されるからだ。だがそれはこの先も続くかどうか。いま書いておかねば数ヶ月、いや、数週先に消えてゆくだろう。そうしてはじまったのが「書き句け庫」。
 
 凜然と幽艶を体現したMさん。手紙はMさんなのだ。フェアということばをMさんはときおり口にした。「書き句け庫」をMさんが読んでいる可能性はゼロとしても、このような場所に書き記すのはフェアではない。「書き句け庫」でわがままを遂行したのは、Mさんの手紙からあふれ出る凜然と幽艶を残したかったからだ。
 
 人がどのように解釈しても消えない美しさはある。それが自分遺産にほかならない。世界遺産より自分遺産を記憶に残すという性質。Mさんの愛した大和のまほろばを遠望し、心の風景をみる。未来は予見しがたく、魂は過去をさまよう。「書き句け庫」も足かけ14年、思えば長々書いてきたものだ。
 
 過日、京都のホテル17Fのバーにおいて長老3名(HK、HJ、私)のことをU君が言う。何度も聞いた話なのでぜんぶ言う前に「井上さんといえば女性」が口癖のU君に、「私は女嫌いだ」と言った。
「ウソーぉ!」と反応した彼に、「男には甘いが女には厳しい」と私が言うと、横にいたKT君と前にいたKY君は怪訝な表情をした。奥にいたAさん(女性)のみ「そういうところある」という面持ち。
 
  女嫌いは子どものころにさかのぼる。昭和29年から昭和33年ごろにかけて、私の実家にはおおぜいの男女が出入りしていた。富豪でもサロンでもないのに広間は大きく、使われていない部屋もあった。
男女のほとんどは10代後半から30代後半、毎月一度か二度やってきてただ酒を呑み、肴を食べ、声高にしゃべり、歌い、ときには夜更けになっても帰らず、子どもが寝ていても廊下を踏みならして歩いた。そこまでは問題なかった。にぎやかなのはわるいことではないと思えた。
 
 おとなになって、「やかましかったね」と母に言うと、「あなたも一緒に歌っていた」と言う。記憶は飛んでいるけれど、そのころおぼえたのが「真室川音頭」、「同期の桜」、「さらばラバウル」なのかもしれない。宴会を催し、続けたのは母であり、父はしかたなく加わり、継続の是非をめぐって諍いがあった。
 
 男女は独身者が多かったように記憶している。既婚者もいた。独身者既婚者の顔がいまも浮かぶ。そういう人たちが入り混じって酒席をともにすれば、屋外交流に発展することもある。それはいい、男女の機微は子どもにもわかる。
困ったのは、夫婦で出入りしている夫、妻のどちらかが独身者とねんごろになり、屋外で逢い引きしたのをだれかが見て、噂が実家の内外に広がることである。ひそひそ話に子どもは耳をかたむける。妻が浮気した場合、それを知った夫が実家に怒鳴り込むこともあった。
 
 夜中に目を覚ました子どもが寝ぼけてドアを開けると、若いカップルが抱き合っていた。夢中になっているから気づかない。ドアを閉めれば気がつくと思ってそのままにしてトイレへ行ったが、小さな衝撃は出るはずのものを止めてしまった。
互いに意味深長な目配せをする男女にも迷惑した。そういうことをすればだれしも感づき、子どもは黙っていても、くちさがないおとなは口がすべる。風紀を乱す者は出入り禁止だとは言えない。人前ですべきでない目配せを先にするのは女だ。
 
 女嫌いは東京に行っても変わらなかった。生意気にも自分のメガネにかなう女性はいないと思っていた。大学3年の晩秋以降、Mさんと何年も交流できたのは女嫌いを忘れさせる魅力がMさんにあったからだ。
彼女も私も我慢強い性質でなかったので喧嘩もしたけれど、私の身勝手と無分別で苦境に立った昭和48年2月から2ヶ月半、献身的につくしてくれた。癒やし系ではないMさんに癒やされたのだ。
 
 
 
 「書き句け庫」は懐かしい思い出を書くためのものだった。OB会も2005年から2007年前半までは愉しかった。ところが2007年秋ごろから2008年夏ごろまで、或る人が別の人を攻撃しはじめ、どんどんエスカレート。攻められる後輩の浅慮、攻める人の過激。どちらに軍配を上げるという類の話ではなかった。攻める人はネジが外れているように思えた。
 
 金沢での第5回OB会(2009)終了の3ヶ月後、出席者全員に負担をかけた責任を取って退会するはずだった。仲間のうちHKだけには退会の決心を伝えた。反対少々、疑問符少々。肝心なときにことばを濁し、煮え切らないHKらしかった。
 
 猛反対したのは伴侶である。反対理由は二つ。「起ちあげた人がここで退くのは逃げることになる、そのような立場ではないでしょう」。もう一つは、「当事者の人でさえワセジョの意地と面目にかけて勇気をふるおうとしているのに、引き下がれるの?」。
 
 OB会第10回目(2014)が自分の最終会と2009年秋に決めた。決意はだれにも明かさなかった。第11回以降出席しなかったことについては別の理由もある。A君、MY君、MK君の3人がほとんど来なくなった。KY君が意図的に3人分引き受けて座を盛り上げている。が、3君がいないと持って帰る土産も少ない。
 
 しかし今回のOB会でHK(京都の予備校時代のストーカー話)やKY君の漫談、思いもかけずU君、KT君のずっこけ話(12月10日「花ざかり」)も飛び出した。
二次会でKY君が、「おとどしHKさん、井上さんと泊まった京都御所そばのホテルに予約したつもりが、ホテルに入った途端、別のホテルだと気づきました」と言う。
 
 京都御苑・南辺〜北辺までの烏丸通に面してパレスの名のつくホテルは二つあり、互いの距離も近い。KY君はパレス違いをしたのだが、記憶力の確かなKY君でもそういう間違いをすることもある。PC検索し、もうひとつのパレスホテルの室料が安く、あのホテルだと思ってクリックしたらしい。
 
 京都で開催された14回目OB会に出席したのは、幹事KM君が2017年12月2日、下見のため上洛したおり私に連絡してくれて、「なにかとアドバイスしていただきたいのでお会いできませんか。ご自宅でもどこでも行きます」と言ったからだ。中間地点の大阪梅田で会った。KM君はすこし体調を崩していた。
 
 「KMさんはいい意味の九州男児、気配りも男気もあるよ。これで欠席したら男じゃない」と伴侶は言い、「KYさんが幹事だった先月(2017年11月)、出席しなかった。よくない」と追い打ちをかけ、「ことし(2018年)が最後のOB会になる(私の出席が最後という意味)かもしれない」と言った。
 
 仮想現実の文字と肉筆は比較にならないほど大きな差があり、私が「書き句け庫」に記したデジタル文字を記憶にとどめる人はほとんどいない。だが、ここに記したことは自分自身の経験であり、現実である。
 
 長いあいだお読みいただきありがとうございました。
 
 
         
       明日香村 2007年秋 甘樫丘から飛鳥寺への途上


前頁 目次 次頁