Dec. 16,2018 Sun    きみ知るや古都の日々(5)
 
 2005年12月20日「手紙」に始まった「書き句け庫」とは名ばかりの連載は2018年8月5日「旅、そして旅(5)」で終わった。その人が私に書いた最後の手紙が連載最終のエピローグである。
Mさんの手紙は現存しない。別れる前にぜんぶ送り返した。手紙の内容は記憶。記憶が確かであると言い切れるのは、Mさんの手紙は生きているからだ。記憶のなかでさえ魅了されるからだ。だがそれはこの先も続くかどうか。いま書いておかねば数ヶ月、いや、数週先に消えてゆくだろう。そうしてはじまったのが「書き句け庫」。
 
 かつて凜然と幽艶を同時に体現したMさん。手紙はMさんなのだ。フェアということばをMさんはときおり口にした。「書き句け庫」をMさんが読んでいる可能性はゼロとしても、このような場所に書き記すのはフェアではない。
最後のわがままを許してくれたMさんに「書き句け庫」でわがままを遂行したは、Mさんの手紙の凜然と幽艶を残したかったからだ。「あいかわらずね」という声がきこえてくる。人がどのように解釈しても消えない美しさはある。それが自分遺産にほかならない。
 
 
 2007年10月21日「共楽寸時」を読んだHKはメールしてきた。それ以前も以降も節目々々にメールが届いた。が、そのときは様相が異なり、「えっ」と思って読むと、「共楽寸時」の讃辞と質問めいた文言が記されていた。
「共楽寸時」は、甘樫丘、飛鳥寺などのプチ合宿参加者の顔を思い浮かべながら書いた。うまく書けていたとしたら、参加者、甘樫丘からの風景、飛鳥寺へ至るあぜ道のおかげである。あのころの心のありようを凝縮したのが「共楽寸時」、そうした心のありようは一貫して2014年秋(第10回OB会)までつづいた。
 
 世界遺産より自分遺産を記憶に残すという性質。大和のまほろばを遠望しつつ心の風景をみる。未来は予見しがたく、しかし魂は自由に過去をさまよう。一瞬だけでもいい、互いの感性が同調同化するなら。
 
 コールドケースは法隆寺において40年ぶりに解明された。それでも謎は残る。なぜミサコさんのコートが赤だったのか。勝負服だと思ってもみたが、深窓の令嬢が赤で勝負するだろうか。ニヒルな一面が彼女にあったとしても、あえて挑発色を選んだのはなぜか。学内とは異なる自分をみせたかったのか。永遠の謎だ。
デートの場所・深大寺と法隆寺の共通点は白鳳期の夢違観音(両方国宝)である。HKが深大寺を語ったとき危うく夢違いと言いかけた。奈良京都は心の古里。「書き句け庫」に掲げた文章のほとんどは記憶にたよった追懐である。
 
 月の光はなく、美女はいなくても、友めがけて矢を射れば、いつか返し矢が飛んでくるだろう。「書き句け庫」も足かけ14年、思えば長々書いてきたものだ。
感慨を記述していけば止まらなくなる。語ることは山ほどあり、そのほとんどはいやというほどくり返してきた。
 
 過日、京都のホテル17Fのバーにおいて長老3名(HK、HJ、私)のことをU君が言う。何度も聞いた話なのでぜんぶ言う前に「Iさんといえば女性」が口癖のU君に、「私は女嫌いだ」と言った。
「ウソーぉ!」と反応した彼に、「男には甘いが女には厳しい」と私が言うと、横にいたKT君と前にいたKY君は「怪訝」と「戯言」とが入り混じった表情をした。奥にいたAさん(女性)のみ「そういうところある」という面持ち。
 
  女嫌いは子どものころにさかのぼる。昭和29年から昭和33年ごろにかけて、私の実家にはおおぜいの男女が出入りしていた。富豪でもサロンでもないのに広間は大きく、使われていない部屋もあった。
男女のほとんどは10代後半から30代後半、毎月一度か二度やってきてただ酒を呑み、肴を食べ、声高にしゃべり、歌い、ときには夜更けになっても帰らず、子どもが寝ていても廊下を踏みならして歩いた。そこまでは問題なかった。にぎやかなのはわるいことではないと思えた。
 
 おとなになって、「やかましかったね」と母に言うと、「あなたも一緒に歌っていた」と言う。記憶は飛んでいるけれど、そのころおぼえたのが「真室川音頭」、「同期の桜」、「さらばラバウル」なのかもしれない。宴会を催し、続けたのは母であり、父はしかたなく加わり、継続の是非をめぐって父母の諍いがあった。
 
 男女は独身者が多かったように記憶している。既婚者もいた。独身者既婚者の顔がいまも浮かぶ。そういう人たちが入り混じって酒席をともにすれば、屋外交流に発展することもある。それはいい、男女の機微は子どもにもわかる。
困ったのは、夫婦で出入りしている夫、妻のどちらかが独身者とねんごろになり、屋外で逢い引きしたのをだれかが見て、噂が実家の内外に広がることである。ひそひそ話に子どもは耳をかたむける。妻が浮気した場合、それを知った夫が実家に怒鳴り込むこともあった。
 
 夜中に目を覚ました子どもが寝ぼけてドアを開けると、若いカップルが抱き合っていた。夢中になっているから気づかない。ドアを閉めれば気がつくと思ってそのままにしてトイレへ行ったが、小さな衝撃は出るはずのものを止めてしまった。
互いに意味深長な目配せをする男女にも迷惑した。そういうことをすればだれしも感づき、子どもは黙っていても、くちさがないおとなは口がすべる。風紀を乱す者は出入り禁止だとは言えない。人前ですべきでない目配せを先にするのは女だ。
 
 女嫌いは東京に行っても変わらなかった。生意気にも自分のメガネにかなう女性はいないと思っていた。可愛く、明るく、毅然として、誠実で、実直、我慢強く、時間と約束を守り、癒やしてくれ、料理がうまい。一度、二度の遅刻ならどうということはない、三度以上つづくと、男なら許せても女性は許せない。
大学3年の晩秋以降、Mさんと何年も交流できたのは女嫌いを払拭する魅力がMさんにあったからだ。遅刻したことはなかった。約束も守ってくれた。彼女も私も我慢強い性質でなかったので喧嘩もしたけれど、私の身勝手と無分別で苦境に立った昭和48年2月から2ヶ月半、献身的につくしてくれた。癒やし系ではないと思っていたMさんに癒やされたのだ。
 
 金沢での第5回OB会終了3ヶ月後、出席者全員に負担をかけた責任を取って退会するはずだった。仲間のうちHKだけには決心を伝えた。反対半分、疑問符半分、HKらしかった。猛反対したのは伴侶である。ふだんは物静かな伴侶だがそのときは違った。
伴侶の反対理由は二つ。「起ちあげた人がここで退くのは勇退でなく逃げることになる、そのような立場ではないでしょう」と言う。もう一つは、「当事者の人でさえワセジョの意地と面目にかけて勇気をふるおうとしているのに、引き下がれるの?」と言うのだ。内憂外患はどこにもあるのだろう。
 
 2009年秋に心を決めた、OB会第10回が自分の最終会という決意はだれにも明かさなかった。第11回以降出席しなかったことについては別の理由もある。A君、MY君、MK君の3人がほとんど来なくなった。KY君が意図的に3人分がんばって座を盛り上げている。が、3君がいないと持って帰る土産も少ない。
 
 しかし今回のOB会でHKやKY君の漫談、思いもかけずU君、KT君のずっこけ話(12月10日「花ざかり」)も飛び出した。二次会でKY君が、「おとどしHKさん、Iさんと泊まった京都御所そばのホテルに予約したつもりが、ホテルに入った途端、別のホテルだと気づきました」と言う。
烏丸通に面してパレスの名のつくホテルは二つあり、互いの距離も近い。KY君はパレス違いをしたのだが、記憶力の確かなKY君でもそういう間違いをすることもある。PC検索し、もうひとつのパレスホテルの室料が安く、あのホテルだと思ってクリックしたらしい。久しぶりにわが家へ土産大盛りを持ち帰ることができた。
 
 京都で開催された14回目OB会に出席したのは、幹事KM君が昨年12月、下見のため上洛したおり、私に連絡してくれて、「なにかとアドバイスしていただきたいのでお会いできませんか。ご自宅でもどこでも行きます」と言ったからだ。私の提案で中間地点の大阪梅田で会った。KM君はすこし体調を崩していた。
私を引っぱりだしたのは、しばらく欠席していた私に出席してもらいたいと思ったからだろう。「KMさんはいい意味の九州男児、気配りも男気もあるよ。これで欠席したら男じゃない」と伴侶は言い、つづけて「KYさんが幹事だった先月(2017年11月)、出席しなかった。よくない」と追い打ちをかける。
 
 HKと私&伴侶が会った今秋の奈良・京都では、「ことしが最後のOB会になる(私の出席が最後という意味)かもしれない」と言い、またKY君が幹事だった昨秋のことを持ち出した。KM君のことも。
12月8日のOB会に出席した理由は上記のごとし。HKには個人的に古都で会えるだろう、KY君、MK君にも私が健在なら(彼らの健在は当然)会う機会もあるでしょう。
 
 仮想現実の文字と肉筆は比較にならないほど大きな差があり、私が「書き句け庫」に記したデジタル文字を記憶にとどめる人はほとんどいない。だが、ここに記したことはウェブ上の文字であっても現実である。
江戸、明治、大正、昭和と四つの時代を生きてきた人たち、大正、昭和、平成と三つの時代を生きてきた人たち。昭和、平成、そして新しい元号を生きようとしている人たち。三つの時代を生きる人はしあわせというべきだ。さらば平成。
 
 平家物語の知盛入水に、「見るべき程の事は見つ」という文言がある。11月末、重篤な病で亡くなった伴侶の友人OT君のことば「十分生きたから」とほぼ同じ意味である。
 
 「書き句け庫」最終回にふさわしくないことを書いてしまったのは自分のわがままです。
長いあいだお読みいただきありがとうございました。
 
 
         
       明日香村 2007年秋 甘樫丘から飛鳥寺への途上


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